歴史を読む:エジプトの古のエメラルド鉱山


エジプトのWade Sikait(ウェイド・シカイト)に近い古代エメラルド鉱山エリア
探検家フレデリック・カイヨーの1817年の遠征の記録に残る、エジプト、Wade Sikait(ウェイド・シカイト)付近のエメラルド鉱山のイラストレーション。ローマ人には「Mons Smaragdus」、エメラルドの山と呼ばれていた。

数ある宝石の中でもエメラルドは、プトレマイオス朝エジプト人によく知られ、後に古代ローマ人にはsmaragdi(スマラグディ)と呼ばれました。 エメラルドに関する記述は、帝政ローマの小プリニウスの「Natural History(博物誌)」 (紀元79年ごろ)などの書物や、レンヌの詩人Abbot Marbodの「the Lapidarium(ラピダリウム)」 (1070~1080年ごろ)にも登場します。

エメラルドを使った宝飾品はローマ時代から存在しており、その時代の絵画にも描かれています。 エメラルドの結晶(たいてい不透明から半透明)は自然な状態かやや研磨された状態で、穴を空けられてネックレスやイヤリングとして使われていました。 カボションや丸みを帯びたビーズのように研磨されたものもありました。 記録に残る最古のエメラルドの宝飾品はグレコ・ローマン時代(紀元前50年~紀元395年ごろ)のものです。 エメラルドはその持ち主にとって、芸術的かつ象徴的に、あるいは宗教的に重要であったと考えられます。

これらの歴史に残るエメラルドは、インドや中央アジア、あるいは現在のオーストリアのごく一部で採掘された可能性はありますが、ローマ時代、これらの場所での採掘はなかったようです。 初期の書物には一貫して、こういったエメラルドはエジプトのSikait(シカイト)近郊の古代鉱山から出たものと書かれています。シカイトはナイル川沿岸のLuxor(ルクソール)と、紅海沿岸に位置するローマ時代の港町Berenike(ベレニケ)のほぼ中間にあります。 (ジェベル・シカイトの座標は 24°40’N 34°48’E で、Edfu(エドフ)の南東285キロメートル、ベレニケの北西130キロメートルの場所に位置します。)

考古学的な証拠から、このエジプトの鉱山は早ければ紀元前500年ごろから断続的に稼働していたのではないかということですが、本格的な採鉱はローマ人が紀元前30年ごろに始めたようです。 初期ローマの作家たちはこのエリアを“Mons Smaragdus” (モン・スマラグダス=エメラルドの山)と呼んでいました。 新世界と呼ばれた南北米大陸にある現在のコロンビアで、より高品質で大量のエメラルドが1520年代に見つかるまで、エメラルドの主な産地はエジプトでした。

1817年、そのエジプトの鉱山は探検家フレデリック・カイヨーによって再発見され、彼はその鉱山の開拓を試みました。 その後も数世紀にわたり何人もの探検家が訪れ、商業的なエメラルド産出を試みましたが、どれも失敗に終わりました。 1899年初め、ロンドンの有名な宝石商エドウィン・ストリーターが鉱山の利権を得ましたが、努力もむなしく、採算が合わないために数年で廃業にいたりました。

この読書リストの使用方法

この読書リストは、エジプトにある古代のエメラルド鉱山の歴史について詳しく学ぶ機会を提供するために編集されました。 これらの記事の多くは1800年代から1900年代初期に発行されたものですが、この時期、歴史的重要性が高い有名な宝石鉱床が多く発見され、宝石学や鉱物学が科学となりました。 このリストは、時代の経過とともに考察が深まっていく様子がよく分かるように、年代順に提示されています。 このリストは包括的ではありませんが、見過ごされ、忘れられがちな興味深い宝石学の情報がまとめられています。

記事の多くはすでに一般公開されており、HathitrustInternet Archive、またはその他のデジタルレポジトリなど、オンラインのデジタルライブラリで見つけることができます。 より最近の出版物については、Richard T. Liddicoat Gemological Library(Richard T. Liddicoat宝石学図書館)などの図書館に置いてあるものもあります。 これらの記事の要約は通常、ジャーナルや雑誌の出版社のウェブサイトに掲載されており、ほとんどの場合、記事全文をその出版社経由で購入できます。

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Antiquities – Emerald Mines(古代の遺物-エメラルド鉱山)、著者不明、 Blackwood’s Edinburgh Magazine(ブラックウッズ・エディンバラ・マガジン)、 Vol. 7, No. 38, pp. 214-215, (1820年) Jebel(山または丘)Zabara近くで1817年に発見された古代のエメラルド鉱山に関する、フランス人探検家で科学者のフレデリック・カイヨーによる簡潔なレポート。

『Travels in the Oasis of Thebes, and in the Deserts Situated East and West of the Thebaid in the Years 1815, 1816, 1817 and 1818(テーベのオアシスとテーバイドの東と西の砂漠への旅、1815~1818年)』 F. Cailliaud著、フランス語からの翻訳であり、ロンドンの Richard Phillips & Companyが出版(1822年)、 オリジナル版はパリにて1821年に出版されています。 オスマン総督とエジプト統治者の許可を受けてエジプトの砂漠を旅した探検家による記録。彼は1817年の秋に、Luxor (ルクソール)とEdfu(エドフ)の南東、ナイル川東岸の山岳砂漠地域でエメラルドの古代鉱山を発見しました。 何世紀もの間、不明であった場所です。 その鉱山の場所は、Sekkat(古代エジプトの名前 Senskete または Senskisからとられた、Sikait)(シカイト)の近くと記述されています。 また、鉱山のエリアのイラストも含まれています。 この記事とその他のエジプト探検の概要は、London Quarterly Review(ロンドン・クォータリー・レビュー), Vol. 28, No. 55, 59~97ページ (1823年)に掲載されています。

“Earth and Its Treasures(地球とその宝)”A. Mangin著、T. Nelson and Sons, ロンドン、(1875年)187~199ページ。 第23章はエメラルドと他のべリルについて書かれており、フレデリック・カイヨーがエジプトを探検しエメラルド鉱山を発見た功績にも述べられています。

The Mines of the Northern Etbai or of Northern Aethiopia(エトバイ北部またはエチオピア北部の鉱山) E.A. Floyer著、Journal of the Royal Asiatic Society of Great Britain and Ireland(ジャーナル・オブ・ザ・ロイヤル・アジアティック・ソサエティ・オブ・グレートブリテン・アンド・アイルランド)、811~833ページ、(1892年) ナイル川と紅海の間にある山あいのエトバイ地方で、地質学的な探検を行った報告書の要約です。 著者は、エメラルドが雲母片岩に発生するこの地域の鉱山について、記述しています。 最も重要な鉱床はWadi Sikait(ワディシカイト)で発見されています。 この報告書の要約版は、the Quarterly Journal of the Geological Society of London(クォータリー・ジャーナル・オブ・ザ・ジオロジカル・ソサエティ・オブ・ロンドン)、 Vol. 48、No. 192、576~582ページ(1892年)に掲載されています。 エメラルド鉱山は「40平方マイルもの山や谷」に広がっていると書かれています。

Der Aegyptische Smaragd [The Egyptian Emerald(エジプトのエメラルド)] O. Schneider、A. Arzruni共著、Zeitschrift für Ethnologie、 Vol. 24、No. 2、41~91ページ、(1892年) 著者がエジプトで採取したエメラルドの標本、および博物館から借り受けた標本の詳細な特徴についての研究です。

Vergleichende Untersuchung der Smaragde von Alexandrien, vom Gebel Sabara und vom Ural [Comparative Investigation of Emeralds from Alexandria, from Jebel Zabara, and from the Ural Mountains(産地別エメラルドの比較調査:アレクサンドリア産、ジェベル・ザバラ産、ウラル山脈産)]A. Arzruni著、Zeitschrift für Ethnologie、Vol. 24、No. 2、91~100ページ、(1892年) 3つの地域からのエメラルドについて、結晶学、光学特性、内包物を鉱物学的に比較しています。

The Emerald Mines of Northern Etbai(エトバイ北部のエメラルド鉱山) D.A. MacAlister著、Geographical Journal(ジオグラフィカル・ジャーナル)、Vol. 16、No. 5、537~549ページ、(1900年) 紅海の西約15マイル、エトバイ北部にあるJebel Sikait(シカイト山)の「クレオパトラのエメラルド鉱山」への探検についてのレポートです。 山の標高は海抜1800フィート(約550m)で、周囲の谷からの高さは1200フィート(約370m)です。 シカイト山の西側の斜面と谷に沿った鉱山を100か所以上も探索しましたが、どれも大昔に放棄されたようでした。 それらは、エメラルドが鉱化している場所を追うように、狭くくねくねした長いトンネルがある原始的なつくりであると書かれています。 この地域には木材がないので、当時の鉱夫が大きな地下坑を掘ろうとしても支柱となる材がありませんでした。 鉱山の入り口は地表の開口部でした。  すぐ近くにある集落の跡地や3か所の岩窟寺院も訪問しました。 報告書には何点かの写真とともに、この地域の詳細な地図、様々なタイプの雲母や滑石の片岩(エメラルドが含まれています)、他の変性岩質の露出部分の図表も含まれています。

Prehistoric Emerald Mines(先史時代のエメラルド鉱山)、L. Claremont著、Knowledge Magazine(ナレッジ・マガジン)、Vol. 36、(4月)124~127ページ、(1913年) エメラルド鉱山についてよく読まれている記事です。ロンドンの宝石商エドウィン・ストリーターが遠征した際に撮った写真などが含まれています。

Beryl Occurrences in Egypt(エジプトにおけるべリルの産状) M.A. Hasan、H.M. El-Shatoury共著、Mining Geology(マイニング・ジオロジー)、Vol. 26、No. 138、253~262ページ、(1976年) この研究者らによると、エメラルドの鉱化がみられる変性岩質帯は、エジプト東部の砂漠の北西から南東の方向に45キロメートルにわたって延びています。 この地帯には3つの主要な鉱化エリアが含まれます。それは有名な古代のJabel Zabara(ザバラ山)近くのエメラルド鉱山と、Nugrus-SikaitとUm Kabu-Um El Debaaで、それぞれ数マイルずつ離れています。 この3つのエリアの地質学的な環境が簡単な地形図とともに掲載されています。

Ancient Emerald Mines and Beryllium Mineralization Associated with Precambrian Stanniferous Granites in the Nugrus-Zabara area, Southeastern Desert, Egypt(エジプト南東砂漠ヌグルス-ザバラエリアにおける先カンブリア時代の錫を含んだ花崗岩に関連するベリリウムの鉱化と古代エメラルド鉱山) M.M. Soliman著、Arab Gulf Journal of Scientific Research(アラブ・ガルフ・ジャーナル・オブ・サイエンティフィック・リサーチ)、Vol. 4、No. 2、529~548ページ(1986年) この研究は、Nugrus-Zabara(ヌグルス-ザバラ)地域の主要なベリリウム鉱物であるべリルを取り上げ、ベリリウムの地質化学的な領域の産状について提唱しています。 その領域は北西から南東へ向かう地帯で、紅海に沿って伸びる深い構造帯と平行しています。 べリルの鉱化は、雲母の片岩とクオーツの鉱脈が、鉱化した花崗岩と接触している地層に限られています。

The Pharaoh’s Forgotten Emerald Mines(ファラオの忘れられたエメラルド鉱山)O. Grubessi、C. Aurisicchio、A. Castiglioni共著、Journal of Gemmology(ジャーナル・オブ・ジェモロジー)、Vol. 22、No. 3、164~177ページ、(1990年) エジプトの鉱山への訪問と、そこで採集したエメラルド標本の宝石学的特徴について書かれています。

Emeralds and Green Beryls of Upper Egypt(北エジプトのエメラルドとグリーンべリル) R.H. Jennings、 R.C. Kammerling、A. Kovaltchouk、 G.P. Calderon、 M.K. El Baz、 J.I. Koivula共著 Gems & Gemology(宝石と宝石学)、Vol. 29、No. 2、100~115ページ(1993年) GIAのスタッフを含むグループが、1991年にエジプトの鉱山を訪問した際の報告書です。 3つの主要な鉱区の、それぞれの場所、地質的環境と説明が記載されています。 古代の鉱山の作業場の写真も含まれています。 また、著者らはエメラルド素材の宝石学的な特性について述べています。その特性の多くは、他の変性岩質の片岩である母石から出たエメラルドの特性と似ています。 これらのエメラルドの質が他の主要な鉱床に比べ全体的に低いことを考えると、この3か所でのさらなる採鉱は期待できないとしています。

“Smaragdminen der Cleopatra”: Zabara, Sikait and Umm Kabo in Ägypten [“The Emerald Mines of Cleopatra”: Zabara, Sikait and Umm Kabo in Egypt(クレオパトラのエメラルド鉱山:エジプトのザバラ、シカイトとウム・カボ)]G. Grundmann、G. Moretani共著、Lapis Mineralien Magazin(ラピス・ミネラリエン・マガジン)、Vol. 18、No. 7/8、27~39および90ページ、(1993年) ドイツの鉱物学雑誌に掲載された、東エジプトの砂漠のエメラルド鉱床についての記述です。 180年近く前に書かれたフレデリック・カイヨーの著書の中に描かれているシカイトの寺院は、現在もその場所に残っています。 この3つの主要な採鉱エリアの地質学的な環境が、産地やエメラルドを含む鉱石の標本の写真とともに掲載されています。

Routes Through the Eastern Desert of Egypt(エジプト、東の砂漠を渡る路) S.E. Sidebotham、 R.E. Zitterkopf共著、Expedition Magazine(エクスペディション・マガジン)、Vol. 37、No. 2、39~52ページ、(1995年) この記事は、古代のエメラルド鉱山の近くを通る、内陸の貿易ルートをたどった考古学者の記述を要約したものです。 

エジプトの歴史上、グレコローマン(またはプトレマイオス朝)時代(紀元前332年~紀元395年)に、地中海地方、南アラビア、東アフリカ、南アジアの間における貿易が発展しました。 これらの貿易のほとんどは、ナイル川に沿って、東の砂漠を横断し、そして紅海沿岸を通って行われました。 

Berenike(ベレニケ)の町は紀元前275年にエジプトの王プトレマイオス二世によって建設されました。ベレニケはプトレマイオス朝からローマ時代にかけて、紅海沿岸の最南に位置する安全で主要な港でした。 南からは紅海を船で荷物を運んで来ることができますが、地中海地域へと北上する場合は、強い風に阻まれ船で荷物を運ぶことはできませんでした。 比較的軽量で高価なもの(スパイス、お香など)はキャラバンで、ベレニケから北東に砂漠を横断し、ナイル川沿いのCoptos(コプトス)かEdfu(エドフ)へと輸送されました。

地中海地方からの輸出品、その他の外国からの輸入品に伴って、ベレニケとナイル川を結ぶ道では、金やエメラルド、建造物用の装飾石材が運ばれるようになりました。 貿易路は、プトレマイオス朝またはローマからの駐屯兵による砦によって守られていました。 それは舗装もされず距離塚もない、ただ平らなだけの道でした。 道沿いにおよそ20キロメートル間隔で置かれた水場は防備されているものとされていないものがあり、通行者が安全に夜を過ごせる所もありました。 いくつかの水場の跡が今も砂漠に残っています。

これらの貿易ルートは、ローマ帝国の衰退とともに使われなくなり、15世紀に「アフリカの角」(大陸北東部)を回る航路が発見されると、事実上、消滅しました。 6世紀に廃墟となったベレニケの町は砂に覆われてしまいましたが、1818年には遺跡となって発見されました。 過去20年もの間、ベレニケにおける考古学発掘で、エメラルドやグリーンべリルの結晶が見つかっているということは注目すべきことです。

Emerald Mining in Roman and Byzantine Egypt(ローマ時代及びビザンチン時代のエジプトにおけるエメラルド採鉱)I. Shaw、J. Bunbury、R. Jameson共著、Journal of Roman Archaeology(ジャーナル・オブ・ローマン・アーキオロジー)、Vol. 12、No. 1、203~216ページ、(1999年) 記事詳細不明。

Mineralogical and Geochemical Investigation of Emerald and Beryl Mineralization, Pan-African Belt of Egypt: Genetic and exploration aspects(エメラルドとべリルの鉱化における鉱物学的地質化学的調査、エジプトの汎アフリカベルト:起源と実地調査) H.M. Abdalla、 F.H. Mohamed共著、Journal of African Earth Sciences(ジャーナル・オブ・アフリカン・アース・サイエンス)、Vol. 28、No. 3、581~598ページ、(1999年) エジプトで発見された先カンブリア紀の岩石中の2つの異なるタイプのべリル鉱化に関する、鉱物学的、地質化学的な詳しい研究です。1つは変性岩質の片岩に含まれたエメラルドで、もう1つはペグマタイト、英雲石、鉱化したクオーツ鉱脈から見つかったべリルです。 両タイプの形成環境について述べられています。

L’Exploitation des Mines d’Emeraude d’Autriche et de la Haute Egypte à l’Epoque Gallo-Romaine; Mythe ou Réalité? [Exploitation of the Mines for Emerald in Austria and Upper Egypt in the Gallo-Roman Era; Myth or Reality?(ガロ・ローマ時代における、オーストリアと北エジプトにおけるエメラルド鉱山の開発 神話か事実か?)]G. Giuliani著、Revue de Gemmologie a.f.g.、No. 143、20~24ページ、(2001年) フランスの博物館が所蔵するガロ・ローマ時代の宝飾品数点の中にあるエメラルドを研究して得た化学的な酸素同位体のデータによると、いくつかのエメラルドの地理的な産地はオーストリアのHabachal(ハーバッハタール)だと判明しました。 また1つは中央アジア(パキスタン)からのもので、他はほぼエジプトからのものでした。

Emerald City(エメラルドの都)J-L. Rivard、 B.C. Foster、 S.E. Sidebotham共著、Archaeology(アーキオロジー)、Vol. 55、No. 3、36~41ページ、(2002年) シカイトはエジプトの東の砂漠にぽつんとある集落ですが、プトレマイオス朝とエジプトのローマ支配時代にはエメラルド採鉱の中心地となりました。しかしこのエリアではじめてエメラルドが産出された時代はわかっていません。 1817年にシカイトを発見したカイヨーはこう記録しています。「驚くべき発見だ。こんな砂漠の奥地に、こんなに良好な状態の街があるとは...。 私は満足感でいっぱいになり、まだ誰にも知られていない新しい街に大声で呼びかけました。街といっても、2000年ほど誰も住んでいませんが、ほぼ全体が完全に残っていました。」この記事は、1998年に現地訪問した際に、考古学的な現場の状態や残存する古代鉱山および建物の様子をまとめたものです。 この場所でのエメラルドの採掘は、5世紀まで続いていたようです。

Archaeological Geology of the World’s First Emerald Mine(世界最古のエメラルド鉱山の考古学的地質学) J.A. Harrell著、Geoscience Canada(ジオサイエンス・カナダ)、Vol. 31、No. 2、69~76ページ、(2004年) Wadi Sikait(ワディ・シカイト)地域についての、詳細な地質学的、考古学的研究です。このエリアでは、雲母片岩とペグマタイト、クオーツ鉱脈の接触面の近くでエメラルドの結晶が発見されています。 このエリアの露出している古代鉱山は、ほとんどが露天採鉱で深さ2,3メートルのところを、片岩内の鉱脈を追うように掘られています。 縦抗とトンネルが数多く存在し、100メートルを超すものもあります。これらは地下鉱脈を探すために使われました。  鉱脈全体と隣接した片岩、あるいは鉱脈だけが古代の鉱夫により、ノミやとがったピックなどで取り出されました。(このような採鉱道具はまだ発見されていません。) べリルの結晶は地下の作業場から取り出されると、坑道の入り口付近で母岩から外されます。 鉱山の地下部分はまだ調査されていません。 記事には、この地域の最近の写真も含まれています。

The Emerald and Gold Necklace from Oplontis, Vesuvian area, Naples, Italy(イタリア、オプロンティス、ベスビオ地方、ナポリで発見されたエメラルドと金のネックレス)C. Aurisicchio、A. Corami、S. Ehrmann、G. Graziani、 S.N. Cesaro共著、Journal of Archaeological Science(ジャーナル・オブ・アーキオロジカル・サイエンス)、Vol. 33、No. 5、725~734ページ、(2005年) 紀元79年のVesuvius(ヴェスヴィオ)山の噴火で壊滅したOplontis(オプロンティス)というローマ時代の町にあった“Lucius Crassius Tertius(ルシウス・クラシウス・テルティウス)” という邸宅で、1984年に発見されたネックレスの考古学的な調査についての記事です。 化学分析と赤外分光データにより、このネックレスのエメラルドはエジプト産の確率が高いという結論に至っています。

Archaeological Geology of Wadi Sikait(ワディ・シカイトの考古学的地質学) J.A. Harrell著、Journal of Archaeology of Egypt(ジャーナル・オブ・アーキオロジー・オブ・エジプト)、Vol. 4、No. 1、1~12ページ、(2006年) シカイトでの考古学的発掘調査によると、主要なエメラルド採鉱期間は1~2世紀と、4~6世紀初頭であったとしています。 その後、鉱山は放置されたようですが、多少の採鉱活動は数世紀の間継続された可能性があります。

Multi-stage Emerald Formation during Pan-African Regional Metamorphism: The Zabara, Sikait and Umm Kabo deposits, South Eastern Desert of Egypt(パンアフリカ地域の変性作用期におけるエメラルドの多段階形成 ザバラ、シカイト、ウム・カボの鉱床、エジプトの南東砂漠)G. Grundmann、G. Moretani共著、Journal of African Earth Sciences(ジャーナル・オブ・アフリカン・アース・サイエンス)、Vol. 50、No. 2/4、168~187ページ、(2008年) 地質学的証拠によると、これらの地域の鉱床に含まれるエメラルドは、パンアフリカ造山運動に関連した局地的な変成が起こっている間に形成されたことを示しています。 ベリリウムとクロムイオンおよび変成流体の有無が、母岩中の地質学的に有利な場所でのエメラルドの散発的な形成を左右します。 著者によると、エメラルド形成のモデルについて、他の形態を表す証拠は見つかっていません。

Dr. James Shigleyは、カリフォルニア州カールスバッドのGemological Institute of Americaの著名な研究員です。